Izaya Orihara,The tutor as well as the Informant 6-2
学校生活の華である文化祭が終わり、静雄たち三年生の目は受験へと向いた。休み時間になれば、一部の例外を除いて、ほとんどの生徒は皆各々の単語帳や参考書を開いて互いに問題を出しあうか、赤いシートで隠して語句の暗記に努めた。
「皆よくやるよねー」
その例外、新羅は教室中を見渡しながら言った。しかしかく言う彼自身も用語集を開いてはいた。最も内容は高校生では決して学ぶことのない劇物や薬品名ばかりである。そんな知識が一体どこに必要になるのかと思わせるくらいだった。
その隣の席で、静雄は黙々と紙を読んでいた。
「静雄は何を読んでいるの?」
「臨也が書いた解説。それより分かりやすいんだよ」
それ、というのは参考書に付いていた厚い解答解説の別冊子のことである。使わないのであれば持ってこなければいいのに、と新羅は思った。
――― まぁ、臨也だしね
新羅は頬杖をついて用語集を眺めた。以前怪我の治療代の代わりに、半ば嫌がらせのつもりだったが、K大の世界史の問題を突き付けたことがあった。臨也は数分それを眺め、やがて一言。
『…なんだ。そういうことか』
そして数分で答えを書いて去っていった。お世辞にも上手いとは言えない文字と模範解答を見比べれば、解答の要点をすべて押さえており、かつ模範解答よりも自分たちが書きそうな構成で、早い話完璧な解答だった。
――― って、“臨也”?
ふと新羅は再度静雄の方を向いた。
「静雄名前で呼んでたっけ?」
「あ。……まぁ、頼まれて」
そこを指摘されるとは思っていなかった静雄は言葉を濁し、先日の文化祭でのことを軽く説明した。
「はぁ……律儀だね」
――― 臨也も何頼んでいるんだか。
新羅はやれやれと言わんばかりに首を振り、肩をすくめて見せた。
よくよく考えればおかしな話であった。いくらお願いと言われても、年上の人を名前で呼び捨てにするのは敬語とは違う。文字数が減ったため呼びやすくはなったのだが、静雄は今一つ落ち着かなかった。
始業のチャイムが鳴り、生徒が各自の席に着くと化学の教師が入ってきた。起立と礼を省略し、教師はまずチョークを手に取り黒板に書き始めた。字を目で追っていけば、『中間考査範囲』の文字。
「試験一週間前だから、各自でメモっておくように」
そう言って、教師は教科書を開いた。生徒たちはノートの端や机の隅にそれを書き写した。静雄もルーズリーフの端に書き留め、鞄の中から教科書を取り出そうとした。すると携帯の受信ランプが点滅していることに気づいた。教師の目を盗んで開くと、送信者の欄に母親の名前が入っていた。
――― 母さん?
何だろうと思いながら、静雄はメールを開いた。
『ごめんね。今日ちょっと仕事が長くなりそうで遅くなるから、夕飯頼んでもいい?』
ここで否という返事は返せない。むしろ静雄にとっては少し好都合だった。短く「わかった」と打つと送信ボタンを押し、携帯を鞄に戻した。
授業が、まだ一時間目なのだが、学校が早く終わることを静雄は願った。
* * *
新宿。
静かな空間で、臨也はコーヒーを片手にパソコンに向かっていた。書類作成にチャット訪問、情報検索、連絡と、やらなければいけないことがたくさんあるのだが本人は至って余裕の表情でキーボードを叩いていた。なぜならチャットと情報検索はラップトップで行い、デスクトップで臨也は情報検索と連絡を行っていた。そして書類作成は波江に任せていた。
ふと時計を見ると、十二時を幾分か過ぎていた。
「一回休憩して昼食でも食べようか」
「そうね」
波江は書類を上書き保存し、パソコンをスリープ状態にした。そして椅子から立ち上がるとそのままキッチンへと入っていた。臨也はラップトップでの作業を中断した。
「今日は何を作ってくれるのかな?」
頬杖をつき、そう笑顔で尋ねるが、波江の反応は冷やかであった。
「先に言っておくけれど、貴方の注文を聞く気はないわ」
「いや、俺は別に何でもいいよ。人が作った料理なら」
そう言うと、臨也は情報検索のため、デスクトップの画面に視線を移した。
キッチンに立ったまま、波江は溜息をついた。そして独り言を臨也に聞こえるように言った。
「サラダとインスタントにでもしてやろうかしら」
「それは勘弁!」
がたりと椅子から音を立てながら立ち上がり、臨也は大きな声で拒否を示した。
「冗談よ」
しれっとした態度で波江は返し、棚から食パンを取り出しトースターに入れた。そして冷蔵庫からハムや卵、レタスを取り出した。サンドウィッチである。
――― 波江さんが言うと、洒落にならないからなぁ……
少しだけ嫌そうな顔をしながら、臨也は椅子に落ちるように座り、ほっと息を吐いてパソコンに意識を戻した。
* * *
何かがおかしい。
静雄は下校途中、直感的に感じた。別段静雄の周りに変化はない。大通りを普通に人が往来し、しゃべり、横断歩道を渡り、車が高架下を走り抜けている。風景自体に変化はない。おかしいのは、自分を取り巻く空気だった。異物が内側に入ったような気持ち悪さを感じた。
――― 何だ?これ。
左右を見るが、別段変なものはない、
「……」
と思ったが、一人の人間が静雄の目に留まった。
その人間は今から静雄が渡ろうとしている横断歩道の向かいにおり、携帯を弄っている。見た目の年齢の割にその指は早い。
信号が赤から青に変わった。大勢の人間が渡り始めた。その男も例外なく、こちらに歩いてきた。
静雄は踵を返し、男に背を向けて歩き出した。
そのまま首都高沿いに歩道を進み、後ろに注意を向けた。あの男は背後にいた。たまたま同じ方向かも知れないが、静雄は次いで比較的広めの路地に入った。
「……」
やはり男は背後にいた。相変わらず携帯を弄っているが、長すぎる。女子高生でもないのにここまで弄るのはおかしい。
静雄はさらに細い路地に入り、振り返った。その瞬間小さな金属音が耳に入った。見れば、先ほどの男がナイフを振り上げていた。
「ッ!」
静雄は空いた腹部めがけて拳を突き出した。男は軽々と後方に吹っ飛び、壁に激突して崩れた。男が手放したナイフが皮膚の表面を掠り、赤く滲んだ。
「何だってんだ」
静雄は地面に落ちたナイフを靴の踵で踏みにじった。いきなりナイフを振りかざすなど非常識にも程がある。男が起き上がって来ないことを確認すると、静雄は路地を抜け、広い道に戻ろうとした。まさにその気を抜いた瞬間だった。
「?!」
建物の陰から飛び出してきた男がまた切りつけてきた。しかし刺さることはない。静雄はそのまま男の襟を掴んで投げ飛ばした。
しかし。
「…あ?」
くぐもった音が一発、二発、三発と聞こえた。急に足から力が抜けた。撃たれたのだと気付いたのは、その場に倒れてからだった。右太腿と左腹部、そして左肩。貫通はしていなかった。幸いにも肺は外され、呼吸に問題はなかった。
――― 痛い。
しかしこのまま伏せていてはいけないと思い、腕を立てて立ち上がろうとしたが、体を起こすことができなかった。力が抜けてしまった。
――― あー、急所いったのか?これ
すると、視界が霞み、音が遠ざかっていった。
――― やべ、意識が……
「まずい、『折原臨也』が来た!」
――― 折原、臨也……?
最後に聞こえた名前に、静雄は納得した。あの最初に感じた違和感は“これ”だったのかと。
そしてそのまま、意識を手放した。
* * *
橙の陽が差し込んでいた。確かこの天井は来良総合病院だったっけな、と記憶をたどった。
「目、覚めた?」
ぼんやりとする頭を右に動かすと、臨也の姿が目に入った。
「……」
「何で俺がここにいるのかって聞きたそうな顔だね。丁度君の所に行こうと思っていたらなんか変な音が聞こえてさ。駆けつけてみたら君が倒れていたんだ、……血塗れで」
そう言った時の臨也の顔はどこか蒼白だった。
「お母さんは今医者と話してるよ」
それを聞いて、静雄は午前中のメールを思い出し、悪いことをしたなと思った。それよりも今はこの男に聞きたいことがあって仕方がなかった。
呼んで来るよ。そう言って立ち上がった臨也の手首を静雄は掴んだ。
「なぁ、臨也」
静雄は肘をついて起き上がり、臨也を見上げた。
「何?」
そう聞き返す臨也の顔にはいつもの温和な笑みが張り付いていた。今の静雄にとってはそれが鬱陶しくて仕方がなかった。
「お前、何か隠してるのか?」
「別に何も」
突然どうしたの。そう臨也は言った。その声に僅かな震えを見抜き、静雄はさらに被せた。
「何で俺を刺した奴らが、お前のこと知っていたんだ?」
「!…それは」
臨也は目を見開き、そして表情を取り繕うと視線を静雄から外し、言葉を濁した。静雄は手を伸ばして臨也のコートの襟をつかむと、自分の方に引き寄せた。静雄のほぼ真上に臨也の顔がきた。目を合わせるのが億劫なのか臨也は目を伏せたまま気まずそうな表情をしていた。
「お前」
更に聞きこもうとしたところで、病室の引き戸が開いた。母親と幽だった。
静雄はばっと手を離した。そして臨也は機会を得たと言わんばかりに身を翻しドアの方に進んだ。
「じゃあ、私はこれで。お大事に」
そう母に会釈をして逃げるように病室を出て行った。外に出て丁寧にお辞儀をする母を背に、幽は静雄の横に立った。そしてひざを折り静雄の視線に合わせた。
「何かあったの?兄さん」
「いや……」
静雄は手首を掴んでいた手をじっと見つめた。
* * *
「…そッ!!」
だんっ、と臨也は壁を叩いた。しかし誰も振り返らない。振り返る人がそこにはいなかった。音だけが空しく反響した。
路上に血まみれで倒れていた静雄を見た時以上に肝が冷えたことはなかった。臨也は壁に寄りかかり、ぎりり、と歯を食いしばった。そして病院であるにも関わらずポケットから携帯を取り出し、ある場所に電話を掛けた。それは数か月前、池袋の裏を取り締まってもらうように頼んだ場所であった。
「…どういうことですか」
『あなたに頼まれたことはちゃんとやってますよ』
電話越しの低い声は淡々と言った。
「彼らの現在はご存じで?」
『それはもちろん。しかしこういったことはあなたの専門ではありませんか?』
「…まぁ、そうですね」
どうやら教える気はなさそうだ。失礼します。そう言って臨也は電話を切った。確かに自分はあの資料については彼らに手を回してくれるように頼んだ。そして確かにあれは資料外の、数か月前に“捨てた”集団だった。臨也は自分の楽観さを呪った。
――― 絶対、消し去ってやる
携帯電話を握りしめ、獲物を捉えた狩人のような鋭い目で臨也は窓の外を睨んだ。