Izaya Orihara,The tutor as well as Infomation Tipper 3


 家庭教師を受け始めてから早くも一カ月が経つ頃、静雄は最初に感じた違和感を忘れそうになっていた。実際、忘れていた。折原臨也という家庭教師は今一つ掴み切れない所はあるが、教え方に不満も文句も一つもなかった。彼の解説は分かりやすさを謳い文句にしているどの参考書の解説よりも丁寧で親切だった。かつ的確に自分の知りたいところが解った。そのお陰か、静雄の成績はさらなる伸びを見せた。中間考査ではクラス順位三番を獲った。また、何があったのかは分からないが、不良たちが絡んでくることも少なくなった。そのお陰か、生徒たちから、少しずつだが、話しかけてくるものが増えてきた。

 母親は褒美に何がほしいと聞いてきたが、静雄は何もいらないと答えた。別に褒美が欲しくて勉強している訳ではない。まるで自分のことのように喜ぶ母親の姿に目をとめてから、静雄は自室に戻った。後三十分ほどで臨也が部屋に来る。散らかってはいないが教科書類を片付けなければいけないし、何より制服から着替えなくてはいけなかった。

 静雄はクローゼットからズボンやシャツを何着か取り出してベッドの上や床の上に伸ばして置いた。そして慎重に選んで袖を通した。今日は久しぶりに弟、平和島幽が夕方に帰ってくる日であった。早朝に出かけ深夜に帰ってくる芸能生活を送っている彼との約一カ月ぶりの顔合わせであった。

 ――― これなら文句はきっと無いよな

鏡の前に立ち、静雄は普段では気にしない細部まで入念にチェックをした。

 静雄が選んだ服は質の良い七分の白いシャツとダメージ加工が施された黒い細身のジーンズであった。これらは以前から贈られたものであり、どこからか仕入れてきた服を、幽がクローゼットの中に勝手に入れていったものであった。静雄が止める機会を逃したその行為は、最早趣味の域に達してきているようで、時々奇妙なものも混じるようになった。「カンガルーはいません」のようなTシャツや、「海人」と習字で書かれたものなど、一体いつ着ようかと悩んでしまうものも増えてきていた。

 選ぶために広げた服を片付けていると、不意にドアがノックされた。

「何?」

母親かと思い、静雄はいつものように軽い返事をした。

「こんにちわ、静雄君」
 ――― 折原さん?

返ってきた声に、静雄は驚き時計を確認した。まだ時間には余裕があった。かといってドアの前に臨也を置き去りにしていては何だか奇妙で申し訳ないので、さっと服をクローゼットの中に詰め込んで、臨也を部屋に入れることにした。

 部屋に入ってきた臨也の姿を見て、いつもと違うことに静雄は気づいた。今まで黒一色の格好しか見たことが無かったので、薄青色に濃紺で英字が描かれたシャツが珍しく、やけに眩しく感じた。

「前の子が体調を崩してお休みになったから、早めに来ちゃった」
「・・・はぁ」
 ――― 体調が悪かったからって、こっちの都合も考えろよ

静雄は口に出さずに思い、そしてもうひとつ気になっていたことを口にした。

「どこか行ってきたんですか?」
「何で?」

臨也は首をかしげた。

「いつもと違うので」

静雄は臨也のシャツを見て言った。臨也は指された自分のシャツを見て、少し肩を竦めた。

「俺だって四六時中黒子みたいな格好しているわけじゃないって。今日暑くなるって天気予報が言っていたから」

苦笑しながら臨也は答えた。しかし静雄は服から視線をそらさない。

「似合わない?」
「いや、似合わなくはないけど……」

確か。そう続けて静雄はクローゼットの中を少し漁った。間もなく、静雄は目当ての物を見つけた。その手には、臨也が来ているものと同じ服があった。

「これだ・・・って、これ?!」
「うん、それだね」

いまだ値札のついたままの服の、その値札を見て静雄は驚愕した。どう見ても静雄の価値観としては、長袖Tシャツ一枚の価格ではなかった。確か少し前に弟が珍しく嬉々として帰ってきたと聞いて何かとおもった時にクローゼットに追加されていたものだった。

 ――― もしかしたらこのクローゼットの中に入っている服って……

今まであまり気にしていなかったことに、静雄は焦った。そして先程の臨也の軽い返事からして、このような服がまだ家にたくさんあることが窺えた。多分あの黒一色のものも実はこのくらいの値段のするものばかりだろう。

 ――― 金銭感覚が違ぇ……

芸能人の例については幽がいるので知っていたが、家庭教師ってそんなに稼げるものなのだろうか。服を片付けて、そんなことを考えて自分の勉強椅子に座ったところ、机の上に置いていたA4サイズを横に四等分した短冊が目についた。それを見て、静雄は気持ちを切り替え、その紙を手に取って臨也に渡した。

「そうだ、これ中間考査の成績です」
「あぁ、返ってきたんだ」

いつもの椅子がなかったので臨也はベッドに腰を掛け、その紙を開いた。それを見て、静雄は椅子を取ってこようとしたが、やんわりと断られたため、自分の椅子に座りなおした。

「……わ、すごいね」

国語数学理科社会英語。大学入試の共通一次試験に必要な科目すべて八割超え。そうそう取れる成績ではない。あえて難を言えば、なぜこの成績でクラスのトップが獲れなかったのか。相当な天才もしくは奇人でもいるのか。それを尋ねると、静雄は悔しがる様子も嫌がる様子もなくあっさりと答えた。

「同じクラスの岸谷新羅って奴が医学部目指してるから」
「あぁ……新羅、か」

臨也の脳裏に浮かんだ、眼鏡をかけた四字熟語をよく使い解剖が趣味という変態じみた、いや変態の高校生。来良学園に通い、静雄と同い年であることは知っていたため、彼に違いない、と臨也は確信した。

「知ってるのか?」
「まぁ、ちょっとね。同じクラスなんだ?」
「俺に話しかけてくる数少ないうちの一人です」
「友達?」

その言葉に、静雄はぴくりと反応した。

「友達って言えば、友達、ですかね……」

そう言うも、静雄は少し嫌そうな顔をした。

「何でそんなに嫌な顔をするの?」

そう問いかけると、静雄は頭を掻きながら答えた。

「……初対面でいきなり体の構造が知りたいから解剖させてくれ、って言ってきたやつを喜んで友達なんて言えますか」
「……はは」
 ――― 新羅ならやりかねないなぁ

臨也は苦笑した。

「でもまぁ、話しかけてくれるし、いろんなところ連れ回されるのも嫌じゃないです。……本当、解剖だけ除いて」

 ――― 世間一般ではそれも友達と言うのだけれど

しかしあえて言葉には出さず、臨也は心の内に留めておいた。

 ふと、ドアが控えめにノックされた。何だ、と静雄が声をかけるとドアが開いた。そして静雄より二、三歳ほど年下の、妙に表情に欠けた青年が立っていた。

「幽!」
「ただいま、兄貴」

その青年、平和島幽は抑揚のない声で言った。俳優業を営んでいるので容姿は整っていた。静雄より頭約一つ分背が低いが、年齢の平均には高い方だろう。少し長めの髪も、長さゆえの鬱陶しさはなく、むしろ彼の神秘的な、中性的な雰囲気にとても合っていた。顔の造形は静雄に似たところがあるが、あまり似ていない兄弟だった。

「これ、お土産」

そう言って幽が差し出したものは、静雄でもよく知る某有名ブランドの小さな紙袋。大きさから服や鞄でないことは確かだった。

「いつもありがとな」

先ほどの事もあり、静雄は少し引き気味でその紙袋を受け取り、中身を見た。

「ハンカチと・・・何だこれ?」

ハンカチは白地に黒いラインの入った、至ってシンプルなものであった。もうひとつは箱に入っており、開けてみると小さなデザイン性のある、薄青い液体の入った小瓶が入っていた。

「あぁ、それ香水だね」
「香水?」
「うん、きっと静雄君に似合うと思うよ」

静雄はその小瓶をしげしげと眺めた。透き通るような青はどこまでも綺麗で、どこか別世界を感じさせるような雰囲気を持っていた。

「そっちの人は?」

幽の視線が臨也に移った。表情からは判別しにくいが、少し警戒しているように静雄には見えた。

「この人は家庭教師の折原さん。一ヶ月前から教えてもらってる」
「家庭教師ですか」

小さく復唱すると、幽は背筋を伸ばし、臨也の方に向き直った。

「兄を、よろしくお願いします」

そして深々と頭を下げ、幽は部屋から出て行った。静雄は驚きで一瞬固まった。

「お願いされちゃったね、静雄君」
「幽の奴……」

静雄は顔に手を当て、深い溜息をついた。

「ま、社交辞令だろうから気にすることもないんじゃない」
「俺が気にします」

ガキじゃねぇって。静雄はもう一度溜息をついて勉強机の椅子に座った。臨也もベッドから椅子へと場所を移り、勉強を始めた。



   *  *  *



「じゃあ、また明日」
「ありがとうございました」

玄関でにこやかに手を振る臨也に手を軽く振り返して見送り、静雄はリビングへと入った。

 リビングには幽一人がソファに座ってテレビ番組を見ているだけで、母親の姿がなかった。テレビの中では、可愛らしい動物の子どもの特集をやっていた。

「勉強終わったの?」

テレビから視線を外し、幽は静雄を見た。

「あぁ。母さんは?」
「会社の方に呼ばれて出かけた。夕飯は冷蔵庫だって。食べる?」

そう言われて時計を見ると、時計は良い時間を指していた。

「そうだな」

静雄は冷蔵庫を開けた。中には二人分のラップのかかった皿が置いてあった。それらを取り出すと、カウンターキッチンの奥に進んで一皿目をレンジに入れて温め始めた。

「あの家庭教師の人、兄貴が選んだの?」

幽はソファからキッチンへ向かい、静雄の横に立った。

「んな訳ないだろ。母さんだよ」

もう一皿をレンジの上に置き、静雄は温めている間の時間を使って、しゃもじを手に炊飯器を開けて茶碗にご飯を二膳分用意し、幽に手渡した。

「変わった人だね」

それらを受け取った幽はカウンターをまわり、ダイニングテーブルに向かい合うように並べた。

「まぁ、家庭教師って感じはしないな。なんつーか、こう……そう、暇つぶしでやっているみたいな感じがするんだよな」

一皿目の温めなおしが終り、静雄は箸二膳とともにその皿をテーブルに置いた。幽はすれ違いにキッチンに戻り、もう一皿の温めなおしを始めた。

「俺もそう思う」

静雄もキッチンに戻り、幽の横に立った。

「まあでも教え方は上手い方だと思う。解説とか丁寧だし」
「でも兄貴もともと成績良いよね」

幽の言葉に、静雄は動きを止めた。

「……何で知ってるんだ?」
「前にごみ箱に捨ててあった成績表見たんだ。それで」

それを聞いて、静雄はもっと目につかないところに捨てるべきだったなと思った。

「母さんには内緒な」

その言葉に、幽は首をかしげた。

「別にいいけど、どうして?」
「……何でだろうな」
「さぁ、俺に聞かれても困る」
「そうだな」

ピーっと、二皿目の温めが終ったことを告げる電子音が鳴った。












 夜、新宿。

 臨也はサザンテラスに座っていた。道には出勤帰りの社会人の流れが出来上がっており、彼のように座ってのんびりとしている者は少なかった。

 テーブルで一人、ペットボトルの紅茶を啜っていると、一人の女性が臨也の前に姿を現した。

「やぁ、遅かったね、波江」
「急に呼び出したのはそっちでしょう」

矢霧波江は長い髪を一度背中に払い、臨也の向かいに座った。昼間であればきっと周囲の目を引いただろうが、今は夜。周りに歩く者もいなければ臨也以外に座っている者もいなかった。

「で、何の用かしら?」
「別に用って程でもないよ。たまには外で食事でもどうかって思って」

空になったペットボトルを鞄に戻しながら臨也は言った。その言葉に、波江はあからさまに嫌そうな顔をした。

「……貴方、そんな理由で呼び出したの?」
「冗談だって。本題はこっち」

そう言って、臨也はついでに鞄から一つの封筒を出し、テーブルの上に置いた。

「前に頼んでいた資料が手に入ってさ。これ、整理しておいてよ」

その封筒の厚さに、波江は眉をひそめた。

「何、この量……」
「大丈夫。半分くらいは要らないやつだから」
「何が大丈夫よ…中身は何なの?」
「んー、池袋を中心に半径五キロ圏内に存在する集団の大切な資料だよ」

大切な、というフレーズを少し強調した臨也に、波江はため息をついた。

「…そんなもの手に入れて何に使うの」

間違っても私を巻き込まないで欲しい。そんな裏の声をこめて言った。すると、それを察したのか、臨也は小さく首を横に振った。

「いや、使いはしないよ。ただ持ってるだけ」

そう、持っているだけでいいのだ。それだけで管理できるくらいの力をこの資料は持っているのだから。

 ――― まぁ、手に入れるのにちょっと苦労したけど。

先日の四木とのやり取りを思い出しながら、臨也はため息をつき、椅子の背にもたれかかった。